彼の話の中でコミュニティ論が展開されましたが、
コミュニティ・メンバーには「勇気」が必要だと言っています。
彼の言う勇気は勇敢さとは違います。
裸の王様を「裸だ!」と感じたことを口にすることに似ているのです。
これは裏を返せば「なぜ」と訊くことにつながると思っています。
この「なぜ」の反対の言葉が「ハイ分かりました」というような「素直さ」。
今回はこの2つの言葉を徒然に考えてみたいと思います。
なぜ、「なぜ」と訊くのか?
和佐が言う「勇気」が、なぜ、「なぜ」につながるのか?
私の考えでは、なぜを封じ込めようする勢力があり、
多くの人はその勢力に屈しているため、
無意識に負け犬になってしまうのだと思っています。
この点は次の「素直さ」で深ぼっていきます。
なので抑圧や脅迫心に屈しているのです、大部分の人たちは。
ごく少数の人が、この恐怖に打ち勝ち「なぜ」と訊けのです。
「なぜ」と言えば有名な話がありますので、それを引き合いに出します。
誰もが知っているエジソン少年の話にヒントあり
エジソン少年は、「なぜ」の連発で教師を困らせました。
そのため教師は、この子は頭が悪いと決めつけたとか。
それにも屈せずエジソン少年はなぜなぜ小僧でした。
彼には理解してくれる母親がいたから続けられたのです。
では、なぜこのなぜなぜ小僧はなぜを連発したのか?
それは、彼の内部には広く大きな全体像を作る力があったから。
どういうことか?と質問が出ると思いますので説明します。
人間の物事の理解は、まとまりをもった全体像に符合していることが
基本です。これはゲシュタルト心理学が言っています。
そして、この全体像はもとからあるものではなく、
経験や学習を通して構築されるのです。
なので少年期などでは、完璧な全体像とは程遠い、
穴がいっぱい開いた全体像なのです。
エジソン少年も穴の開いた全体像を持っていたことでしょう。
だから、先生の言うことが、彼の全体像の符合しなかったり、
穴の開いた部分だったりすると、全体像を構築や改善するため、
「なぜ」が出たんです。
心理学上では、この「なぜ」が氷解した時、
人間は大きなエネルギーを得ると言います。
エジソン少年はこの喜びを知っていたのです。
これって中毒になりますよね。
だから、エジソン少年はなぜを連発したのです。
「素直さ」の裏にいる黒幕
エジソン少年を、学校の先生は大嫌いでした。
なぜなら、先生の知識の範囲を超えているような質問です。
答えられないことも多かったはずです。
学校の先生としての立場が危ういと危惧したかもしれません。
こういう場合、先生は親にあんまり質問しないように言います。
素直にしていないとバカだとレッテルを張りますよと慇懃無礼に。
これは先生の自己保身からでてくることです。
良いということではありませんが…
この先生のような行動は誰にでもあります。
人間には「ホメオスタシス」という現状維持機能があります。
自分の立場が危ういとなれば、現状維持のため行動に出るんです。
そして、次なる攻撃を仕掛けるんですよ。
「素直な」子が将来、偉くなるんですよ、と作り話をします。
何の証拠もなく、ただ自分の心の痛みを逃れるためにです。
なので「素直な」お利功ちゃんなんて大したものにはなれません。
その点を次に説明します。
岡倉天心と弟子たち
確か、私が中学か高校の頃だったと思います。
国語の教科書に、明治の代表的思想家で伝統美術に大きく貢献した
岡倉天心についての評論文がありました。
評論は、おそらく小林秀雄によるもので、天心自身と言うよりは、
天心の弟子たちに焦点を当てていたと思います。
内容は、いかに優秀な人たちが天心の弟子になっても、
彼らは全員、天心を超えることが出来ないというものです。
理由は、天心が体験したことを弟子たちは体験していないため。
天心の言葉を完全には理解しきれないしということでした。
まぁ、従順な弟子たちに偉大な先生のこれまでの経験など訊けません。
なので、経験からにじみ出た天心の崇高な思想も、
弟子たちには十分には理解できず、全体像の穴は開いたままだったのです。
もし、弟子たちが、「なぜですか?」とか「どうしてですか?」と
質問できれば、彼らの理解も深まったのではと思います。
彼ら自身の全体像も構築できたかもしれないのです。
天心のような優れた先駆者のもとで「素直に」学んでも、
劣化コピーでしかないということです。
これで、和佐の話ともつながりますね。
「守破離」はどうなんだ?
茶道や武道の師弟関係の在り方を示す言葉として、
この「守破離」はよく引き合いに出されます。
「守破離」の俗な解釈では、
「守」の段階では、先生の言うことをなんでもはいはいと聞き、
「破」では、「守」を習得後に、先生の教えとは別のことを試してもよく、
そして「離」で、独自のものを開発してもよい、という解釈です。
これは教える側がラクになる、不公平な解釈です。
私の考えでは、半分正解で半分不正解となります。
これまでの話の通り、全体像を知らなければ理解できません。
その全体像は穴あきでもいいから、「守」でまず教えましょう。
弟子が穴の開いている部分に気付いたら、自分で埋めようとします。
熱心な弟子になりますよ。
そうではなく、ただ言ったことをやれでは劣化コピーを
作っているに過ぎないのです。
優秀な弟子に見えても、実際は失敗作に過ぎないのです。
先生が全体像を持っていないときはどうするのか?
先生自身が劣化コピーだったらどうするのか?
不幸な状況です。学ばない方がいいかもです。
しかし、先生の方も生活がありますし、言い分もあるでしょう。
解決策は、先生自身が全体像を早く手に入れることです。
以前記事にしたことがある新田祐士はこんなことを言ってます。
全体像を得るには、
(1)1,000時間勉強をする
(2)その道の専門家に会って雰囲気を感じ取る
ということで、可能だと言っています。
なんせ、新田は高校の時、全国模試で1位をとった男。
頭の構造が他の人とは違うのかもしれません。
でも、一応従うとして、一番目の方は、1,000時間ですから、
1日8時間使ったとして125日で4カ月ちょっとの勉強です。
1日4時間なら8カ月ということになります。
先生になれる立場の人なら、これくらいの時間を
費やして全体像を得てほしいものです。
まとめ
「なぜ」というのは「素直さ」より重要です。
これは学ぶ者にとって重要なだけではありません。
TEDという各界の著名人が短いスピーチをする動画番組があります。
そこでの推奨スピーチ法は、ゴールデンサークルという方法です。
これは、最初に「Why」を話し、次に「How」を説明し、
最後に「What」について話すというものです。
この方法でスピーチをすると良く伝わります。
つまり、教える側も「なぜ」は大事ですから、
双方ともに大事なんですよ。
それをラクしたいがため「素直さ」などとほざきやがる奴は反省しろです。
以上でございます。
(敬称略)