1585年以前の領主

1585年(天正13年)は四国の敗戦の年

戦国時代を終わらせた豊臣秀吉の全国制覇の途中に、
四国征伐があり、1585年に終わっています。
四国勢が敗北・降伏して秀吉傘下に入った年です。
秀吉が強敵として見ていた戦国大名は、土佐の長宗我部元親しか
いませんでしたが、豊臣方総勢10万以上に対し、長宗我部側は4万程度。
多勢に無勢で、初戦から長宗我部軍は崩れていったようです。

当時の愛媛の有力者は河野氏で、今の道後公園あたりにあった
湯築城を本拠にしていました。戦国大名とは見られていず、
実態は後でもお話しますが内部抗争ですっかり疲弊していました。

ともあれ秀吉の四国征伐により、多数存在した中世の城郭は取り壊され、
藤堂高虎の築城した今治城のような近世のお城にかわり、
領土統治も変わってきたようです。

長い歴史を持つ河野氏

愛媛で最大勢力であった河野氏は長い歴史を持っていました。
正確ではないと思いますが、大体はこうです。
700年頃に越智玉澄という今治生まれの人が河野姓を名乗り始めたそうです。
その子孫は武家として綿々と続きました。

大きく名を成したのは、源頼朝挙兵に呼応して平氏討伐で大手柄をたてた時。
この源平合戦をザックリ論じれば、水軍中心の平氏を陸軍中心の源氏が
押していき、最後に水軍に強い河野氏が香川県の壇之浦で平氏に引導を渡した。
そんな感じではないでしょうか。

鎌倉幕府当初は河野氏の評価は非常に高く、ある会合では、
将軍、北条時政に次いで3番目が河野氏の席次だったと伝えられています。
しかし折悪しく、朝廷が1221年の承久年間に北条氏討伐の命を下した時、
河野氏は朝廷側につき、敗れたのです。
当然、一族そろって領地没収、東北に流罪です。

ところが、暫くして旧領地に帰ることが許され、領地も戻ることに。
なんでも北条時政の娘と結婚していたので、異例の処遇?
時は過ぎ、元寇の役の時は強い水軍を活かし大活躍だったとか。

南北朝時代は南朝側についていますが、
最終的には室町幕府から領地を安堵され守護に任命され、
愛媛で最有力者となったわけです。

河野氏衰退の歴史

河野氏が衰退していった最大の理由の一つが一族間の内部抗争です。

ことの発端は南北朝時代、細川氏が四国に侵攻し、香川を占拠。
勢い愛媛の新居浜や西条にも度々攻め入りましたが、
これに河野氏側も抗戦しました。
そして1386年に室町3代将軍の仲介で和睦しました。

問題は和睦案で、新居浜・西条あたりを細川氏の領地とするが、
同時に河野氏から息子を細川氏の養子とし、その子を領主とする、とか。
このため河野氏は息子を養子に出したのです。
居城は西条の高峠城としましたが、
養子になった方も何時殺されるわからない状況ということで、
早々に松山に帰ってしまい、湯築城近くのお城を居にしたそうな。

これが豫洲河野氏の始まりですが、豫洲河野氏も宗家河野氏を狙った結果、
襷かけのような当主交代になりました。
これが家臣団を二分するような結果となり、抗争が絶えなくなったようです。

まあ、応仁の乱の時も両家の内部抗争勃発です。
応仁の乱後、戦国時代になるわけですが、
河野氏の内情ではとてもとても戦国大名にはなれません。

もう一つの話は、戦国時代後期。
当時、今治には正岡氏とか重見氏とか河野氏の有力家臣がいたのですが、
度々松山の湯築城を攻めるという事態が頻発していたとか。
河野氏当主は来島村上家に娘を嫁がせ引き立てました。
そして正岡氏や重見氏は平定させたわけです。
さらに、河野氏当主の跡目を継がせようと画策したようですが、失敗。
これは一族や家臣団が反対し、抗争となったためです。まったく乱れてますね。

因みに、村上家というのは3家あり、上に出てくるのは来島村上家。
海賊物語で有名な村上武吉(たけよし)がいたのは能島村上家。
残りが因島村上家です。

来島村上家は河野氏と姻戚です。
当時、16世紀前半頃は、村上水軍をまとめていたのは来島村上家です。
来島村上家の子孫たちは河野氏の血が混じったかたちで、
秀吉や江戸時代にも大名として生き延びました。
能島村上家と因島村上家は河野氏滅亡後には毛利藩の家臣となりました。

まあ、河野氏に強いリーダーシップを取れる人が出なかった、
いえ、出れなかったことも衰退の理由に挙げられます。
この時代、分家とか養子とかでやや複雑な状況になっていたと思います。
つまり、DNA的には似たり寄ったりな人達ですから、
不当と思ったら反旗を翻すようなことが直ぐ起きたということです、私見ですが。

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