今治藩主久松松平氏についての蘊蓄

久松松平氏とは

江戸時代、今治藩主および松山藩主は松平氏でした。
この松平氏は久松松平氏と呼ばれたりして中高生を少し混乱させているのでは?
その故事来歴を超簡単に語りたいと思います

久松松平氏のご先祖をたどると菅原道真にたどりつきます。
道真は太宰府に流された時、今の今治市志島ケ原海岸で休憩したと伝えられます。
この人、藤原氏絶頂の平安時代、需家の出ながら右大臣まで上りつめました。
当然、他の貴族たちの妬みを買い、讒言されて流刑の憂き目を見たわけです。

しかし、道真は子だくさんで、その孫の一人が今の愛知県の知多半島に住み着き、
地名を冠して久松殿と呼ばれるようになったのが久松氏の始まりです。

時代は過ぎ、織田信長が活躍するちょっと前です、
久松氏は斯波氏や織田氏に臣従していました。
そんな中で久松氏総領は徳川家康の生みの母親と結婚したのです。
男の子も3人もうけました。つまりこの子たちは家康とは異父弟になります。

桶狭間の戦いの祭には、久松氏は織田側、徳川家康は今川方でしたが、
家康が密かに母親と異父弟に会いに来たのです。
そして、兄弟に松平の姓と葵の家紋を授けたとのこと。

桶狭間後、兄弟及び両親は三河の家康のところに行き、
家康の三河平定を助けました。江戸時代になって取り立てられたのは当然。

3兄弟の内、3番目が一番長生きをし、その子供たちは伊勢国桑名藩主や、
更には1635年には松山藩主、今治藩主となりました。
菅原道真の子孫であってかどうか知りませんが皆総じて善政を施したようです。

なお、これら各藩は譜代でした。親藩は家康の男系を条件にしますから、
異父弟だと譜代にされてしまいます。
それが徳川吉宗の孫が桑名系の久松松平家
(当時陸奥白川藩に国替えされていました)に養子にきてから、
桑名藩と松山藩は親藩とされるようになりました。

吉宗の孫とは松平定信です。寛政の改革の中心人物で、
引退しても幕府内で大きな影響力を持っていた人物でした。
それで陸奥白川藩から桑名藩に復することができたのでしょう。

今治藩主の墓

私の住んでいるところから近くに今治藩主の墓があります。
今治藩主の初代、三代、五代各藩主のお墓があります。
古国分山という、標高30メートルの頂上にお墓が並んでいます。

初代というのは、家康の異父弟3兄弟の末弟の子供です。
この末弟は栄進を続け、伊勢国桑名の城主になったのは前述の通りです。
この桑名藩主は1624年に亡くなりますが、
子供たちは桑名藩を相続したばかりでなく、
1635年に松山藩と今治藩を加増され、
それぞれ息子たちが藩主となりました。

今治藩初代は五男で、伊勢長島の城主から今治藩主への栄転でした。
お亡くなりになられたのは1676年、73歳と当時としては長生きされたのでは。
菩提寺は松源院という浄土宗の大きなお寺で今治の北側にあったそうですが、
明治時代になくなったようです。

実はこのお墓の後ろの方に唐子山という小高い山があり、
ここに中世のお城がありました。
藤堂高虎が町中に築城しなおしたことは前に話しました。
でも中世城館にも歴史があります。少々複雑で興味深いものです。
これら藩主たちがこの地に自らの墓所としたのは、
鎮守を願ってのことでしょうか。今となっては知る由もありませんが。

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